苦手な作文がいまは楽しい
文章を書くのが楽しい。
最近、少しずつそう思えるようになってきました。
いまでもそうですが、小学校の頃から作文が苦手だった。
遠足や運動会などの感想文を書くときはいつも、他の生徒が作文を書き終える中、僕だけ手が止まり、「いったい何を書けっていうんだー!!」と心の中で叫んでいた。
だって、作文用紙の半分だけで書きたいことすべて書ききってしまうんですもの……。
無駄にダラダラ長い文なんて意味あるの? 作文の8割はほぼ贅肉(書かなくてもいい内容)じゃんといい考え、まったく書くことが浮かばなかった。。
単純に観察力や感受性が希薄なだけなんですけどね。。
そんな天性の才能といってもいいぐらい、ぼくは文章や言葉を使うということが苦手だったんですけど(すみません。いまも下手クソです)、国語の授業は好きだった。
基本的に授業中は寝ていたので、国語の時間のときに何かを学んでという覚えはないものの、机の上に伏せながら、教師や同じクラスの生徒が教科書を音読しているのを聞いている時間は楽しかった。
10代後半になると小説を買っては自分で読む習慣がついた。
はじめは1冊読むのがなかなか大変だったけど、それも何冊も読んでいるうちに慣れ、読書への苦手意識がなくなった。
それなりに読書経験を積んできたので、客観的な文章の良し悪しは以前よりわかるようになった。だけど、相変わらず自分で文章を書くことが苦手だ。
書いているうちに本題から逸れて支離滅裂な文章になるし、言葉も稚拙な表現になってしまう。
書いている途中に読み返すと、自分で書いておきながら「コイツ何を書きたいんだ?」と頭にはてなマークが浮かんでくる。
知り合いに「文章を書くことがストレス発散です」と言っている人がいるんですけど、僕の場合、文書を書くことがストレスだった。
だけどいまは違う。まだ苦手意識はあるけどストレスを感じることはなくなった。書けば書くほど書くペースは早くなっている気がするし、どんな書き方をすれば、読みやすくなるのかパズルで遊んでいるような遊びの感覚さえある。
それに何より、いまは書くことによって目標に近づいていけるという強いモチベーションも見つけた。
だから、僕はこれから手当たり次第にとにかく書いて書いて書きまくることにした。
まだ、低レベルな文章だけど、1年後飛躍的に僕の文章はレベルアップしているはず!!……と、信じてしばらくブログを続けたいと思います。
これからたくさん映画を観ていこうと思う
僕は映画が嫌いだ。
なんてったって観ていて退屈だから。
約120分何もせずに映画を観ていると「なんて時間の無駄なんだろ」と思えてくる。
映画館で観ているときは別として、家で観ているときは100%途中でスマホやパソコンをいじる。
映画を観ている時間があるなら、本を読むか買い物に出かけている方が時間を有効活用している気になる。
というわけで、これまで僕はあまり多くの映画を観てきていない。
別にそのせいで何か困ったことはないし、
知り合いと話しているときにぼくひとり話題についていけないからとコンプレックスを感じたこともない。
でも、こんな事を書いておいて、実はまったく映画に興味がないというわけでもない。
子どもの頃から金曜ロードショーをよく観ていた。
なんだったら「さよならおじさん」でお馴染み、淀川長治さん時代の日曜洋画劇場だって「さよなら、さよなら、さよなら」を毎週聞いて子どもながら鬱っぽい気持ちになっていたのも覚えている。
それに、王様のブランチの映画紹介コーナーをはじめ、いまはやってるか知らないが10年以上前に深夜にやっていた30分くらいの新作洋画紹介番組とかは食い入るように観ていた。
つまり、映画そのものにまったく興味がないというわけではないのだ。
ただ単につまらない映画が嫌いってだけなのだ。
そのつまらない映画を観て無駄に時間を消費しているのがたまらなく我慢ならない。
観ていて面白いと思える映画ならいくらでも時間を消費してもいい。その証拠にぼくが1番大好きな映画スタンドバイミーは1日で3回観たことがある。
そして同じシーンで3回泣いた。
スタンドバイミーのような心から楽しめる映画は本当に素晴らしい。
(はじめて見た時は「クッソ退屈な映画だな」としか思っていなかったんですけどね)
さて、そんな僕がひょんなことからこれからたくさんの映画をみていこうと思い立った。とりあえず目標として1年間で100本!……と書きたいところだが、いきなりハードモードだと続かない自分の性格を知っているので、まずは1年間で50本と決めた。
そんなこんなで、さっそく以下4本の作品を観てみた。
・ヒッチコック『サイコ』
・チャップリン『シティーライツ(街の灯)』
4本とも感想を書こうと思ったのだが、先々週のことなので自分の中で今更感が否めない。なので、また機会があればいずれ感想をまとめたいと思う。
【ゼクシイのCM】結婚しなくても確かに幸せな時代だけど……という話
70億人が暮らすこの星で結ばれる
珍しいことではなくても奇跡だと思った
結婚しなくても幸せになれるこの時代にわたしは
あなたと結婚したいのです
この言葉は2017年のゼクシイのCMで用いられているコピーである。
はじめてこちらのCMを見たとき、「ハッ」とした。
“なんて素晴らしいCMなんだ”と。
映像はイギリスのロックバンドThe ZombiesのThis Will Be Our Yearの曲と共に 幸せそうな花婿と花嫁がたくさんの風船に捕まりながら、都会の空を飛んでいくというシンプルなもの。
わりと普通な印象の映像だがそこにコピーの力が発揮され、爆発的にCMとしての質を高めている。
さらに、セリフを読む起伏のない女性の声がコピーの印象力を増幅させている。
ネットの書き込みなどを読む限り、こちらのCMは高評価のようで、
ラジオでもパーソナリティが話していたくらい話題にもなっている。
ではなぜ、今回のゼクシイのCMが、いまの時代の人の胸に刺さっているのか。
1、2年前ぐらい前から「パリピ」という言葉をよく耳にする。
この言葉はいまの時代を象徴している。キラキラとしたゴージャスな生活を求め、それを実行している人たち。そんなパリピたちは「イエーイ!楽しい!」とワッキャワッキャする。
「楽しい」というは本心なのだろうけど、どこかに「楽しい自分を演じなきゃ」という自己暗示が含まれている気がする。
現代、その自己暗示のせいで心のそこから思える楽しさや、幸せが埋没している。
これは、みんなが感じている楽しいという感情は真実ではないが嘘でもないということを意味している。いまのままでも十分に楽しいのだ。
“結婚しなくても幸せになれるこの時代”という言葉はまさにその状態を言い当ており、冷静に納得させられる。
コピーは中盤までこうした気持ちや時代を肯定するでもなく、否定もしていない。ただ俯瞰して、ありのままの状態を述べている。
コピーを聞いている人はその言葉に一旦は共感する。
でも、最後の最後で「……とまあ、御託はいいや。好きです!結婚しよう!」
と圧倒的感情論をぶち撒けられる。
冷静ぶって共感していたのに、急に心めがけて熱い感情の言葉がガツーンがやってくる。
フローチャートで表すとこんな感じ。
頭での共感→心での驚愕→心での共感
このコピーの構造がパリピや頭でわかっている気になっている現代の人たちに響き、話題となったのではないだろうか。
ソール・ライター展
先日、渋谷のBunkamuraで開催されていた「ソール・ライター展」に行った。
ソール・ライター(1923年12月03日-2013年11月26日)はアメリカの写真家だ。
モノクロ写真が写真としての威厳を保ち、カラー写真がまだプロの写真家達から軽視されていた時代。そんな中、ライターはカラーフィルムによる写真を積極的に撮っていく。
ライターの代表的な写真集に『Early Color』というものがある。
直訳すると「早い色」だ。タイトルが示す通り、ライターはその時代、まだカラー写真が確立されていないときから、いち早くカラーフィルムでシャッターを切った。
「カラーなんて本物の写真じゃないよ」と気取った保守的写真家達から遠巻きに思われながらもライターはカラー写真を撮り続けた。
『Early Color』に収められている写真は1940年代から50年代に撮影されたものだという。そして、この写真集が出版されたのは2006年である。ライター、このとき83歳である。
おおよそ半世紀の月日を経て、ようやく日の出を見ることになった写真は何の変哲も無い日常でありながらも、まるで映画のワンシーンのようにどれもドラマチックな印象を孕んでいる。
きっと写真の良し悪しがわからない人(わたしも含め)が見ても"うわっ……かっこいい……"と思うことだろう。
くどいようだが、『Early Color』とは「早い色」という意味だ。
しかし、言葉の裏側に「早すぎたカラー写真」という意味が含んでいるのではないかと思う。
そして、いま時代がようやくライターの写真に追いついてきたのだと。
そもそも、なぜライターはカラー写真を撮り続けたのか。
元々は売れない画家だったライター。水彩絵の絵の具を用いた色彩豊かな絵画を描き続けた。画家にとって色は表現する上で重要な要素。そこで身につけた色彩感覚が写真家としてのライターの作品に大きな影響を与えたに違いない。
ライターは自分を売り込んだり、自分の作品を語るのが大嫌いな人物だったという。
(ライターを追ったドキュメンタリー映画があるので、そこで何を語っているのかとても興味深い)
このような部分はとても好感が持てる。
最後にライターが残した言葉の中で、特に印象が残っている言葉を引用する。
「私が写真を撮るのは自宅の周辺だ。神秘的なことは馴染み深い場所で起きていると思っている。なにも、世界の裏側までいく必要はないんだ」